おじいちゃん   教会長

  私は「おじいちゃん」を知りません。というより、私が生まれる前に、二人のおじいちゃんは、神様の御許にいました。
 母方の父は、戦後すぐの昭和21年、51才で帰幽しました。母からも、祖父の話は聞いたことがなかったのですが、最近になって母は「お父さんは、私にとても優しかった」とよく話すようになりました。写真を見ると、母によく似ています。こちらのことは、また後日お話できればと思います。
 さて、父方の父は、昭和36年に66才で帰幽しました。先月8日で、60年の命日を迎え、5月30日には、60年祭が仕えられました。

 祖父は、上野教会初代の五男(末っ子)として生まれ、三重県立第三中学校(現、上野高校)を卒業後、神宮皇學館(現、皇學館大学)に入学しました。漢文科・歴史科の教員免許を取得し、愛知県立第四中学校(現、愛知県立時習館高校)で教員生活が始まりました。私が幼い頃、祖母に聞いた話では、豊橋に住んでいて、結婚式は豊橋教会で挙げたということです。その後福岡、兵庫、大阪の各地で教鞭を執りました。その間に、金光教教師になるための試験に合格し、お道の教師の列に加わりました。そして難波教会で修行し、昭和3年に小阪教会を開教しました。
 教会を開いてからも、難波でのご用に心して仕えきり、難波の二代近藤明道先生からも寵愛を受け、親先生がどこへいくのも、小阪が随行でということだったそうです。
 一方で、祖父は無類の酒好きで、その評判は、大阪中はもとより、各地の金光教の先生の耳に入っていたそうです。父から聞いた話では、当時、夜行列車でご本部団体参拝に行くのですが、行きの大阪駅待合から酒盛りが始まっていたとのこと。祭員のご用に当たっても、ぎりぎりまで神露で、お神酒をいただいていたなど、お酒にまつわる逸話はつきることがないそうです。

 難波のご信心の要である「心配りの信心」を体現するべく、戦中戦後の大変な時期に、健児団(ボーイスカウトの前身)、少年少女会の設立や、戦後住まいに困った方の世話をするなど、人のために尽くされました。
 昭和29年に、脳梗塞を起こして、身体が不自由になられて後も、お酒だけは毎日いただいておられたようです。
 晩年は自身の最期を予感しておられたようでした。自分が亡き後に、父が困らぬようにと、葬儀の祭壇のしつらえや、お供え物、葬儀の祭員や旬日祭の祭主まで、すべてノートに書き残されていました。また、葬儀後のお弁当のおかずまで細かく書かれていましたが、お供え物にタケノコ、お弁当は豆ご飯にタケノコなど、自分が春に亡くなることをわかっておられたようです。
 辞世の句も、祖父らしい豪放磊落なものでした。

「食って糞して寝て起きた 飲んでくらした世の中も やっとこれにて終わりかな」
「呑み助と いわれながらも 世の限り まだ一石には 手が足りぬ」
「罪深き あはれ我が身にて ありけれど かくも有難く 逝くぞ畏し」
「志かすがに逝く春を 心ゆくまで味わいて 去りゆく今日ぞ またもうれしき」


 自分が神様の元へ行く直前も、それを恐れることなく、神様のみはたらきのままに受け入れている様子が歌に綴られています。お酒は「一石」は十分いただいておられたのではないでしょうか(小阪教会長談)ですが、私もそう思います。
 おじいちゃんの頭脳や信仰の中身に、私など足下にも及びませんが、お酒以外のことで少しでも近づけるよう、がんばってまいりたいと思います。



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